白子屋一件
この事件は、享保十一年(一七二六)丙午年十月二十日に、町奉行大岡越前守忠相御役中に訴え出られた事件である。江戸日本橋にある新材木町に白子屋庄三郎の営む材木問屋があった。その娘くまは、下女ひさの取持ちで、その店の手代忠八と密通し、按摩の玄柳を利用して養子又四郎の毒殺を企てた。母つねも、下女きくに、又四郎との密通の疑いを掛け、それを晴らすなら、又四郎を刃物で襲えと迫り、享保十一年十月十七日暁、下女きくは寝床を襲い又四郎の頭等にき疵を負わせた。事件は、発覚し、御吟味となり、翌十二年(一七二七)二月御裁許済んで、二十五日御仕置落着となった。各人の仕置は、下女きく(一七)死罪、下女ひさ(三二)町中引廻しの上死罪、按摩横山玄柳(三八)江戸追放、母つね(四八)遠島、父庄三郎(六三)江戸払、手代忠八(三七)町中引廻しの上浅草にて獄門、くま(二三)町中引廻しの上浅草にて獄門であった。
くまは、裸馬に乗せられ町中引廻しの時黄八丈の着物を着ていて、人目を魅く容姿で、見物人の興味を誘ったという。黄八丈は、この時以来しばらく忌み嫌われ、
材木が八丈を着て名を残し
江戸中の質の流るる黄八丈
などの川柳が残されている。また、安永四年(一七七五)城木屋お駒の「恋娘昔八丈」として浄瑠璃にも組まれ、更に、明治六年河竹黙阿弥によって「梅雨小袖昔八丈」と題された歌舞伎に作られている。
くまの遺骸は、首を継がれ、施主の願により常照院に葬られた。
享保十二年丁未年二月二十五日寂 二十三才
法号 浄誉慈月晴雲信女
|