常照院の開山上人は周公 - 天正十八年(1590)五月二十日寂 - と言い、武蔵国浅茅原の人なりと伝えられる。その事歴は未詳である。所在は大門入る右側旧三島谷入口の角にある。もとは芝浦にあり不断説法所であった。その後、芝移転と共に子院に列せられた。

 三代の住持を長徹という。同人は肥前の人であって、同国大守の宿坊の関係上、常照院の住持は代々肥前人に限られていたのである。

 寺中に「あかん堂」がある。一光三尊阿弥陀如来を安置する。如来の御丈一尺五寸、観音勢至の両脇侍御身丈各一尺である。時は永享元年(1429)七月十五日のことであった。江戸芝金杉先の海に漁夫が網を入れたところ古木がかかったのである。漁夫が引き上げてみると、その古木のうつろ木の中に、一光三尊仏があった。家に安置し丁重に供養していたのであるが、文明二年(1470)三月十五日に同地近くの芝浦にあった常照院住職周公(信誉)が感得するものあり、漁夫の家を尋ね訪い当院に遷座したのである。

 あかん堂の名称であるが、寺伝には古から秘仏であって開帳せず、それゆえに「あかん堂」と呼ばれたというが、堂が赤く塗ってあったので赤い堂がなまって「あかん堂」といわれたとも伝えられる。『塩尻』には天野信景がいうとして正徳四年(1714)願主あり信州善光寺の常灯明の火を移して常灯明とすとも伝えられる。院名これに由来するものがあったかも知れない。如来に不浄のことあれば罪ありとしてつね日頃は門戸を閉したとも伝えられる。

 元禄十年(1697)三月二十九日、桂昌院さま増上寺参詣時には、阿かん堂に参詣せられた。その後、宝暦十二年(1762)二月十六日山内に火あり、学寮子院計五十余宇焼失時焼亡、明和六年(1769)再建されたのである。

 近来江戸市民の群参したのは、文政元年(1818)中秋八月六日から十五日までの十日間に至る法要であった。この法要は二万日不退転念仏の成満であったのである。


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